「Haco」にインタビューしてみた

2017-05-08

ばきりノすの巣 二ノ巣に出演していただいたHacoさんです。
二ノ巣が終わってからのUPとなってしまいましたが、是非一読あれ!インタビューはガキがしています。


— (ガキ、以下 G) 音楽を始めたきっかけを教えてください。
(Haco、以下 H)  私は小さい時に母が童謡とかクラシック全集なんかを私にステレオで聞かせていたので、まぁ音楽には馴染みがあって、他にはサウンドトラックのカセットテープも聞いていたし、あと父がすごく洋画が好きでテレビジャンキーだったから、私がたくさん見ていたわけではないんですが、サウンドトラックのBGMを日頃よく聞いてました。
そういう環境なので音楽教育ではなくて、自然と背景に音楽があった感じです。4歳くらいになってオルガンを始めて、その後、ヤマハのエレクトーン教室の方が営業に来られて、やってみる?で教室へ行って、すぐに始める!になりました(笑)。周りの人はピアノを習う人が多かったんだけど、リズムボックスがついていて、いろんな音がカラフルで、私はエレクトーンの方が気に入りました。和声やリズムやメロディーとか、音楽の基礎はその時に習いました。歌っていうのは習ったことがなくて自然な形で。

— (G) そうなんですね!
(H) で、その後は小学校6年くらいの時に、いとこのお兄ちゃんが近所にいて吉田拓郎やザ・フー(The Who)やミッシェル・ポルナレフなんかを聞かせてくれたり。後は井上陽水… フォークにも興味があって。もちろん、歌謡曲とかも聞いてて。ただ、井上陽水を聞いた時に私も曲が作りたいなって思っちゃいました。

— (G)「傘がない」とか大ヒットした頃でしょうか。
(H) そうそう、その頃、一世を風靡していた頃ですね。で、まぁ、ソングライティングですよね。歌詞があってメロディがあって。その時にはじめてソングライティングしていみたいなって。その後はビートルズとかどんどん洋楽を聴くようになって。中学生の時にちょっとハードロックのコピーバンドに参加したり。後はエンジェル(ANGEL)やベイ・シティ・ローラーズ(BayCityRollers)も聴いてました。その頃の流行りを一通り。エアロスミスとかハードロックを聴いてたけどだんだん好みがディープになってきて、最終的にはドアーズを聞いた時にあぁっと思ってってオリジナルな世界にちょっと目覚めてしまって。パティスミスもカッコいいと思ったし。ニューヨークパンクに傾倒。それが中学3年生くらいかな。

— (G) 周囲にもそういうお友達がいたんでしょうか。
(H) いやぁ、あんまりいなかったですね。ロッキング・オンや、ミュージックライフなんかの雑誌でニューヨークパンクを知ったかも。高校でもそういう音楽を聴く傾向があって。それから高校を卒業する時に大阪に音響専門の学科が初めて開校されることになって。高校は進学校に通っていたんですが、その時にパンクに出会ってしまったからドロップアウトしたくなったんですよ。40歳くらいには死ねるつもりだったんですよ(笑)

— (G) めっちゃ生き急いでますね(笑)
(H) そのつもりやったのにもうとっくに過ぎちゃって、そういう世界に憧れてたかも、ピストルズとか。でも、まだ生きてますもんね(笑) 最初はファッション関係に進もうかなとも思ってたんですが、ちょうど音楽制作したいなって考えてたところに音響学科が開設されて、大阪写真専門学校に。今のビュジュアルアーツですね。行ってみたら、実は大した勉強もしなくて(笑) ただ、オープンリールのテープレコーダーや録音の仕方の技術を学んで。その頃、初めてテープミュージックというのに出会ったんですよ。オープンリールテープで録音したものを切り貼りしてループを作ったり、その進級制作というのがアフターディナーの最初のアルバムに入ってまして、卒業制作は優秀賞を頂きました。その曲も1stに入っているので、アフターディナー時代と専門学校時代というのが完全にリンクしてます。その時代に宇都宮先生と出会ってレコード制作を始めたんですよ。その前に、高校出てすぐくらいかな、アフターディナー名義でバンド活動も始めていたので、小森御幸さんや志村学さんと。だけどレコーディング技術を習ってからはレコーディングのスタイルが主体になってメンバーが入れ替わったり。小森さんがギターを弾きに来てくれたり。最初のシングルを作った82年かな、メンバーが「自分の好きな外国のアーティストに音源を送ってみたら?」って持ち出したんですよ。ロバート・ワイアット、フレッド・フリス、クリス・カトラー氏に送ってみたら、次々にお返事の手紙をもらいまして、好意的で、それは驚きました。メンバー全員が凄く喜んでました。その頃、日本からのエクスペリメンタルな音楽が耳に入るのは珍しかったせいなのかも。カトラー氏からは「次のレコード出すならうちのレーベルRecommendedからどうですか?」というお誘いも頂きました。それで1stアルバムEPを作って、日本からは半自主でカンガンからリリースしたんですが、その後に最初のシングルを足したした海外デビューアルバムがイギリスのレコメンからリリースされることになりました。

— (G) バンドはいつから始めてたんですか。
(H) 高校2年か3年の春休みくらいにバンドを始めたのかな。三宮のセンター街の最上階にすごい怪しげなレコード屋さんがあって。閑散としたフロアの奥に薄暗い喫茶店もあって。そこのちっちゃいレコード屋さんでベルベットアンダーグラウンドのレコードなんかが、ワゴンに入ってて、マニアックなものとかラフ・トレードもけっこう漁ってたし、ニューヨークパンクからポストパンクに影響が変わっていったんですよ。それが1979年くらいかな。私のアルバムでテーリー・テムリッツと一緒に作った『1979』はあの時代のNEW WAVEな音楽にすごい影響を受けてますね。なぜかというとテクニック重視ではなくて、アートスクールの学生が音楽を始めたトーキングヘッズなんかもそうだし、そういう系統がポストパンクには多くて、ユニークで新しい音楽を作り出してた、私もそういうのがしたくなって。その頃はエスニックなものとか、ありとあらゆるものがミックスされてた。それと同時にフレッドフリスの音楽も日本で知られるようになってきたし、ああいったエクスペリメンタルなものとスロッピング・グリッスルのようなインダストリアルな音楽やスリッツ、レインコーツなんかも。私はヤング・マーブル・ジャイアンツが好きで影響も受けてて。シンプルながらもオリジナルで可愛さもあって。だからアフターディナーにもその影響は入っているし、それだけではなくジョン・ケージなど現代音楽も聴いてたし、まぁ、本当になんでも聴いてました。で、なんでもありの時代だったからすごく刺激的、79年から81年あたりかな。うん、だからタイミングが良かったのかも。アフターディナーの最初のシングルはドイツの国営放送で永久保存版になったり、海外ではとてつもない評価というか電子音楽、いわゆるシュトックハウゼン的な昔の50年代の手法で童謡的な声がのっている新しい音楽、のように受け入れられたんですよ。

— (G) その音源のリリースでアフターディナーは海外のライブをたくさん回られましたか。
(H) 87年にフランスのMIMIフェスティバル、フェルナンリシャール氏が主催元でそこから招聘いただいたんです。84年にRecommendedからアルバムリリースされていたのですが、その界隈の方々がアフターディナーを気に入って呼びたいと仰ってくださって。初めて自分たちで自腹でも海外に行こうよってなってツアーのメンバー編成をしたんですよ。その海外ライブがありがたいことにかなり好評でイギリスではメロディメーカーやNMEが取り上げてくださったり。89年にまたフェルナンからお誘いがあって二回目は国際交流基金の助成もいただき一回目より長いツアーをしました。だいたい一ヶ月くらい。そのツアーはイタリアも含めて多くの国を回ったから、未だにその時の思い出話をする方々がいます「あの時のアフターディナーをみたよーって」(笑) その後も91年カナダに行ったりもしました。だけどアフターディナー自体は81年から91年で活動を休止しました。アルバム二枚出してその後はソロを95年に出しました。

— (G) 95年からソロなんですね。ソロを始めるまでの間は何か他の活動をされていたんでしょうか。
(H) 95年は震災の年なんですが、その頃からソロでライブ活動を始めたんですが、それまではあんまり音楽活動を活発にしてなくて、神戸のジーベックホールのサウンド&アート・エキシビジョンという美術の展覧会の企画員として働いていたんですよ。下田さんが上司で私はホワイエでの展覧会シリーズの担当だったんです。すごくやりがいのあるお仕事を頂いて。89年頃、アフターディナーのセカンドアルバムを作っている時に、北田昌弘さんとのつながりでジーベックとも関わりのある川崎義博さんに最終ミックスをしていただいた経緯があって、ジーベックでアフターディナーも91年にライブをさせていただいていますね。その企画書を見て、ディレクターの下田さんからうちに来ませんかってお誘い頂いたのがきっかけです。そこで働くようになって、エキシビジョンを通して勉強させて頂くことが多くて、というのは、国際的な今では考えられないくらい貴重なサウンドアートの展示会の補佐や準備をお手伝いさせて頂けたんです。その方たちの作品やプロセスを間近で見ることができたことが大きいです。藤本由紀夫さん、ロルフ・ユリウスさん、小杉武久さん、鈴木昭男さん、クリスティーナ・クルビッシュさん、マックス・イーストレイ、デヴィッド・トュープといった世界的アーティスト、蒼々たる方々の個展を。ジーベックというのは、サウンドアートに着目するのが世界のなかでも早い場所で、アーティストとの間でも噂になり、メッカと呼ばれるほどになっていきました。東京ではスタジオ2000やWAVEというレコードショップ、現代音楽やすこし難しげで尖った音楽が流行った時代がありましたね。その時代の最後くらいで、スタジオ2000のプログラムとリンクしたり、東京からも注目されましたし、すごくありがたいことで仕事しながら学べました。その後の自分の音楽の活動や発想に影響のある時代でした。91年から95年までがジーベックですね。

— (G) 95年までというのは何か区切りがあったんでしょうか。
(H) それはやっぱり震災が影響していて、ジーベックの親会社がスピーカーメーカーTOAなんですが、予算削減の問題がでてきたんですね。サウンドアートエキシビジョンのセクションも以前のようにはいかなくなったので、、。今でも時々は現代音楽や民族音楽のコンサート企画をしているようですが、以前ほどの頻度ではないですね。

— (G) ジーベックのお仕事を終わられてからソロ制作に入られたんでしょうか。
(H)そうですね、その仕事が終わっってから自分のベッドルームスタジオで録音制作を始めました。一軒屋を借りていたんですが、そこに六畳間スタジオを作って、防音もしたので本格的にマイク録音も出来るようになりました。それでADATで自分でデジタル録音するようになって自分でミキシングしたり。みんなに来てもらって演奏してもらったりセルフプロデュースを始めた頃ですね。

— (G) ジーベックの時も少しソロとかされてたんでしょうか。
(H)そうですね、川崎さんに録音やミックスをして頂いてました。自分はシーケンサーで音づくりをして他はジーベックで録音して。仕事が終わってからスタジオの空いてる時間に作っていたので(笑) 一枚目のソロはすごく時間がかかりました。その後の「ハッピネス・プルーフ」や「HOAHIO」のアルバムは、自分のスタジオで作りました。HOAHIOの1stは東京のGok Soundで’せーのって’バンド録音しましたがミックスは自分のスタジオでしました。あとは当時、ADATのデッキを友達みんな持っていたので内橋和久さん、ACIDの河端さん、大友良英さんとも、ADATのテープ交換で制作してました。今、考えるとすごい豪華なコラボですね!

— (G) ですね!
(H)「ハッピネス・プルーフ」の時は山本精一さんにもスタジオに来て頂いてギターを弾いてもらったり。直近であのギターのテクニックを見れて感激!

— (G) HOAHIOも好きなんですが、メンバーの皆さんとはどういった経緯で一緒にバンドをするようになったんでしょうか。
(H) 東京でニュー・ミュージック・フェスティバルに出演した時SachikoMさん(当時は別名)と八木美知依さんの演奏を見て、あぁ、東京にはこんな鋭い感性を持った女性演奏家がいるんだなぁと感じました。それからなんとなく意気投合して一緒にやらないかってなったんですよね。漠然と女性バンド、ギャルバンドがやりたいなって。彼女たちも自分の演奏を見てくれていて自然とバンドを組む流れになりました。八木さんから曲を頂いたり、ソロで作っていた曲をHOAHIOに回したり、さっちゃん (Sachiko M) がインストの曲を作ったり。

— (G) ありがとうございました!ソロと並行で様々な方とセッションをたくさんされていると思うんですが、そこはどのような形で演奏されているとかありますか。
(H)そうですね、ソロの時はソングライティングとか歌を意識するんですが、歌詞があるとかないとかが大きく左右しますね。即興の時は歌詞をもたずにもっと音響的になりますし。コラボレーションする時は自分のソロではなかっただろうなっていう新たな自分を発見できますね。頂いたトラックや素材に対して、自分はこんな部分があったんだなって運ばれていくような感じで広がりが出ますね。また、コンテポラリーダンスのサウンドデザインとかする時は全然感覚が違います。ムーブメントを想定するというか、ムードによって作曲したりサウンドデザインしたりとかは、また全然違う部分の自分でもって、もうちょと職人っぽくなりますね。時間の制約もありますし、オーダーもありますしね。

— (G) そうですね、ありがとうございます。
アナログから始まって、デジタルという部分ではかなりいろんな形態も合って進化や幅も広がっていく中でどういった形でその変化に対して対応されていったのでしょうか。
(H) アナログテープから始まって、その後はAKAIのサンプラーとシーケンサーでソロを作って、ADATになり、その後はハードディスクレコーディングになって。というのはコンピューターのマシーンの性能が昔それほど良くなくて、難があって私は最初シーケンサーで作っていたんですが、今はパソコンの性能も上がって使いやすくなったので以前よりも高速化して緻密な制作もできるようになりましたし、勉強したっていうよりは必要に迫られた部分もありますね。やっているうちに裏技を覚えたり、昔は大きい機材をたくさん使っていましたが、今はコンピューターしか使っていませんみたいな(笑) ラップトップに以降するようになって、私はAbleton Liveをバージョン3くらいから使ってるんですが、それで作曲の方法も変わってきましたね。Ableton Liveで作曲して演奏してProToolsに録音するみたいな。ProToolsの方が音もいいし、緻密にミキシングもしやすいのでボーカル録音はこちらでやりますね。Ableton Liveのサンプラーの機能が充実しているので二つの間を行ったり来たりですね。即興演奏に関して言うと、コンタクトマイクとヘッドセットマイクでカオスパッドを多用してますね。即興の時は指先で即座に対応出来るのが好きで、カオスパッドで自分の声を変化させたり大体そんな形で演奏しています。録音というのが自分の音楽活動の中心かもしれない。カオスパッドのサンプル機能も録音ですし。なんか音源があって弾くとかではなしに。自分が歌手でミキサーでプロデューサーでという資質があったからでしょうね。

— (G) 音楽を制作していく中で興味が尽きないでしょうか。次から次へとアイディアが浮かぶみたいな。
(H) そうですね、アルバムを制作している時も次はこれをしようとか、ツアー行ってる時もその次はこれみたいにと、アイディアがどんどん湧いてきますね。

— (G) それはもう自然とどんどん出てくるような感じでしょうか。
(H) 私の場合はコラボレーションしているあいだにも、声が別にかかっていたり。大体海外の方が多いんですが、もちろん国内の方もいらっしゃいますが。その中で一つの作品を作っている時はそこに集中していますが、その中で出来なかったことは次にしようとか考えますね。

— (G) 常に動かれているのでその中でアイディアがどんどん湧いてくるんですね。走り続けているみたいな
(H) そう、一つのことだけに集中していることはなくて、ツアーの準備をしながらレコーディングしていたり、並行して何かをしていますね。いつも自転車をこぎ続けていくみたいな(笑)これからもやりたいことをやり続ける感じですね。

— (G) ありがとうございます。ハコさんにとって音楽はどんな存在でしょうか。
(H) うーん、空気みたいな存在でしょうか。ずっとそばにあるみたいな。でも、ストレスもありますね。もちろん、創作なのでいいものを作りたいという欲もあって、私はプロデューサーでもあるのでミキシングしている時のせめぎ合いとか、どうやったらいいものになるんだって悩みもでてくるし。だけど、それがなかったら生きる糧がないというか。すごく空気みたいな自然なものだけど、集中していける場所というか。でも、エネルギーかな!音楽が私をいつも立ち上げてくれるみたいな(笑) スタートアップ!ふぁーんみたいな!

— (G) 起動ですね(笑)今、国内で興味のあるアーティストさんはいらっしゃいますか。
(H) そうですね、今、次のアルバムを制作しているんですが、広島のアンビエントシーンを代表するstabiloさんとGallerySixさんとのコラボになります。今回はアンビエントポップに絞り込んだ内容になります。stabiloさんはシューゲイザーバンドspeaker gain teardropのギター奏者でもあって、昨年彼らの関西ツアーを自主企画させていただいたこともあります。自分の今のスタイルで出来ること、私の声の帯域が彼らの作る音楽とちょうどいい形で合わさっています。ただアンビエントなドローン8分という長い尺に声を沢山重ねていくのは思った以上に難しかったですね。歌もので8分ってかなり長いじゃないですか!ゆっくりめのテンポで息がそんな長く続かないし、歌入れはめちゃくちゃ苦労したんですが、聴いていたらそれは感じなかったですね(笑) 気持ちいいアルバムに仕上がりました。本当に作ってよかったなぁって思いました。今年の9月にオーストラリアのレーベルSomeone Goodからリリース予定です。

— (G) ありがとうございました。


haco
Haco
ヴォーカリスト、作曲家、エレクトロニクス奏者、サウンドアーティスト。
80年代に音響芸術を学び、After Dinnerを結成すると共に作品が国際的に評価される。
近年、声と有機的なエレクトロニクス手法を用いた独自のパフォーマンスを展開。
透明感のある歌声と音響技術が融合した実験的ポップ感覚をつめこんだ楽曲によって、世界中にファンをもつ。
これまでにソロやHoahio等のCD発売多数。海外の革新的な音楽/アートフェスティバルからの招聘をうけ毎年のように
公演ツアーを行っている。
2015年には、通算6枚目にあたるセルフプロデュースの歌ものソロアルバム「Secret Garden」が国内Nuovo Immigratoより
リリースされる。2016年には、1ヶ月に及ぶヨーロッパツアーも大好評を博した。
http://www.hacohaco.net