「アサダワタル」さんと話をしました
− (ガキ以下G) どもどもー。ばきりノ巣 一ノ巣に出演するアサダワタル君にインタビュー始めたいと思います。
実は10数年前にラスと一緒に出していたフリーペーパー以来のインタビューやねんけど(笑)
(アサダワタル以下A) めちゃ前やな。なんか覚えてるわ。大和川レコードの時か。懐かしいな。なんとかお互いやってきてるね(笑)
– (G) まずは自己紹介からお願いします!
(A) アサダです~。ばきりノすと出会ってから色々やってることや表現は変わってるけど基本的に音楽というのが軸にあって、音楽を基に演奏をすることもあれば、音楽を通じてワークショプや場づくりをするようなこともあり、またそこで出会った人たちとのことも含めて本を書いたり、そんなことを各地でやっているというのが今の個人の活動というか仕事。グループワークで言えばSjQ/SjQ++というユニットでドラムをしています。
– (G) うんうん。音楽を軸に色んな活動をしていて、そもそも音楽を始めたきっかけはどんな感じなんかな?
(A) も、割と歳の離れた姉貴たちがおったから、ハードロックのガンズ・アンド・ローゼズやボン・ジョビから、当時の流行してたベタなスティング、中にはYMOがあったりで、いろんなCDを勝手に聴いたりして、音楽は好きやったんよ。小学校5.6年生の頃にCDラジカセを買ってもらったん。ほな、帰りにCD買うやんな。その時に買ってもらったのがたまの「サンダル」やったんよ。そこからちょっと逸れている音楽に興味を持ち出して、渋谷系を聴いたり、洋楽を聴いたりする中で、具体的に演奏したいなって気分になったのは‥まぁまぁ恥ずかしい話やけど、YMOやねんな(笑)もともと姉貴が聴いてたのもあって、何やこれはー!と思って自分でもレンタルするようになって、自分の生まれた年にこんなバンドがおったらしいやんってなったんよ。ただ、こういう話をする友達がおらんかってんけど、中学3年生の時に出会った魚住君(SjQ/SjQ++のリーダー)がいてYMOを薦めたらすげぇーって返ってきて、そこで二人でYMOの話で盛り上がったんよな。彼が放送部で給食の時間にYMOをかけてヤンキーからBOØWY(ボウイ)かけろとか怒られたり、そんな闘争やっててんな。(笑)彼とはそんなんしながらCDの貸し借りをしてたんよな。
– (G) その闘争おもろいな(笑)
(A) 演奏したいって気持ちはあったからYMOをするならキーボードがしたいと思って、とにかく親にせがんでYAMAHAの安いキーボードを買ってもらって、一人でバンドスコアを見ながら練習してたんよ。最初、テニス部に入ってみたものの、面倒くさくて行かなさすぎてクビになってて、ひたすら家でキーボードを弾いてた中学生時代やったんよな。高校になってからバンドがしたいと思ったけど、軽音部がなくてブラスバンド部に入ってん。いろんな諸事情で金かからん楽器を選ぶことになって消去法でいったらパーカッションになったんよな。それがドラムの始まりやねんな。よかったと思うのはロックバンドじゃなくてブラバンから始められたからむちゃくちゃ基礎をたたきこまれて、メトロノームみながらひたすら机ばっかり叩くみたいなことをずっとやってて、おかげさまで基礎力がついて、そのままジャズやったりロックやったり、高校以外のところでバンド組んだりし始めたのが音楽の始まりのきっかけかな。
– (G) 大学入ってどんな活動してたの?
(A) 大学入ってからは今度こそと思って軽音楽部とジャズ研に入ってて、そん時に自分なりに変わった音楽とかを聴いてて、例えばボアダムスとかもそうやし。ニューウェーブにも関心もったり。僕が入ったサークルの先輩が結構そんな実験的なことが好きな人が多くて、先輩に当時難波ベアーズとかでよくライブをしていた、かきつばたってバンドがいたり。そういう出会いもあったから、そこで音楽の幅も広がって。そこから、京都の立命館大学でやってた越後屋っていうバンドにドラムで誘われて、しばらく活動することになるねんな。音源作ったり、越後屋が所属していたサークルにくるりがいて、一緒にライブまわったり。でも、ドラムだけじゃない音楽をなんかしたいってふつふつ湧いてきて自分で歌を歌いたいって気持ちが強くなって、大学3年生くらいからギターを始めてんな。全く何もわからんまま、最初はコードも抑えれんかったけど、そこから弾き語りができるようになって曲を作って宅録しだして、最初にライブやったのが2002年かな。大学卒業するくらいに大和川レコードをやり始めたな。
– (G) 大和川レコードの最初のスタイルは?
(A) 歌とエレキギターにディレイをかけてふぉわんとさせるみたいな、アシッドフォークっていうか、そういう感じやったな。ベアーズが最初のライブ会場やった。
– (G) 大和川レコードはフィールドレコーディングの要素が印象的なんだけど、いつから入れるようになったのかな。
(A) 始めて1年後ぐらいかな。実は二人でやっている時期があって、ピアノをどうしても入れたくなった時に高校のブラバンで一緒やった女の子に入ってもらってんな。音楽仲間で大学でも一緒にバンドしたりしてて、彼女に僕の曲のアレンジをピアノでやってもらったりしてたんよ。その中でサンプラーを持っていって外の音を間に流してみたり、フィールドレコーディングをいれた実験的なことを始めて、また一人に戻った時にその部分が残って、自分一人で色んな音を使ってやる。フィールドレコーディングの音やメトロノームの音、色んな音を組み合わせて、歌だけじゃない世界観を作りたいなーってと思ってそうなったかな。
– (G) 二人でやった時期のことが発展して大和川レコードの世界観になったんやね。
(A) 二人とも映画が好きで映画音楽ではないけど、映画みたいな感覚になる音楽を作りたいと思ってて、二人で参考にしていたのが例えばゴダールやったり。あういうカットアップされる感じとか、そういうのを音楽で表現するにはどうしたらいいかなーを結構話しあってたんよな。この時は色んな映画を見ていて、そういう影響が具体的な音、いわゆるミュージックコンクレートみたいなものを歌に入れていくきっかけというか、映画的な音をキーワードに音楽をしていた時期かなと思う。
– (G) 音の風景の切り取りがあちらこちらに現れては、また次の風景にぱっと変わるけど、歌のメロディで一つの音楽としてまとまるみたいな構成の音楽やんね。
(A) そうそう、そんな感じのことがしたくて、一曲の中に物語がばさばさと切られるような、急に誰かとの会話が入ったり、リハーサルの音が入ったり混ぜていって、音楽が軸にあるけど映画を見たような、色んな風景が頭の中にコラージュされるような体験をしてもらう音楽みたいなことを当時すごく考えていて‥今、思い出したけどブログというかBBSやってて。
(G) うわぁ、なんか懐かしい(笑)
(A)そん時のBBSにやたらと「風景を切断する」という言葉をめちゃ書いてて、キーワードにしてたんよな。ライブ以外にも「風倒木地」というイベントをしてたんよね。最初はソロでライブしてて、中崎町の天人とかプラネットスタジオプラスワンでやったり、途中で映像も使い出したりしてたけど、自分の感覚に近い人、あらかじめ決められた恋人たちへの池永正二君とか、尊敬しているミュージシャンとかもいて一緒にイベント出てもらったりとか、自分のコンセプトを進めていったのが2003年から2004年かな。
– (G) そこから今に至るまではどんな感じで活動していたのかな。
(A) 2004年にココルームで働くことになったことが大きいな。音楽しかやってこなかったけど、ギャラリーとか映画館とかライブハウスではないところで活動していく中で、写真家であったり、美術家とかライブハウスでは出会えない人たちと知り合い、出会う表現者の層が広がっていった。それと同時にSamuraiJazz(現在のSjQは当時この名称で活動)が2003年で1stアルバムを出してツアーに参加することになり、ジャンルで言えばエレクトロ・アコースティックという今まで僕がやってきたのとは全然違う世界観の音楽で、どっちかというと現代アートに近い文脈でも呼ばれることがあり、今まで活動していた越後屋みたいに泥臭いロックバンドとはまた違う音楽で、さらに自分の考え方も変わり広がった感じになったかな。ソロのライブでは音楽という幅を広く捉えることができるようになってから映像を使い出し、テレビモニターを使用したり、新世界のブリッジとか幾つかの場所で活動していく中で、どっちかというと現代アートに近いところで活動が進んだ時にココルームに就職したんよね。よう言うたらアート的な活動で細々でもいいから飯食っていこうとを覚悟したんよなー。自分なりに気負いもあってこういう活動で、新しいことをやりたくて思いつくことをひたすらやっていった時期でそれをやっていくと結果的に音楽から離れていくことになって、その途中で三年ほどやっていたSamuraiJazzもいったん抜けて、ソロだけで活動することにした。自分がもうちょっとお金も得て生きていく、仕事としてやっていくものとしては音楽や映像とか作品を出すものでもなくて、地域に関わるとか、例えば障害のある人とか何かをするとか、そういう可能性も見たところがあって。今で言うところのアートプロジェクトやな。当時、そんな言葉もなかったし、知らなかった。ただそれを大阪、築港でやったり、幾つかやっていき、そのことと今までやってきた音楽活動がどうやったら繋がるんかなってことをそれ以降よく考えるようになったかな。20代の後半はずっと音楽であったり、個人でやってきたことがどうやったら社会的なアート活動と繋がるかを考えてて。でも、なかなかうまくいかなくて、こっちは実験的な音楽でライブや映像、もう一方は地域コミュニティとか日常的な現場での文化活動、それらがまじりそうやけど交わらない平行線みたいな時期があって、悩んでもいたし、色々な可能性を探っていた時期でもある。それが10年くらい前やな。
– (G) ココルームで働いたり、試行錯誤した結果、ある程度自分の中でこういう風に動いていこうみたいな着地点が見えて、今は音楽活動をすることと、音楽と結びつけて仕事をすることの2本ラインみたいなところが明確になってやりやすくなった部分とかがあるのかな。
(A) えと、そういう部分はもちろんあって、もうちょっと細かく言うと、交わらんなーって思っていた部分が、なんでそもそもそんなことを思うかというと、そもそも交わらないならそんなことで悩む必要はなくて、交わらせたいといういう意思があって。そのことを丁寧 に考えたら、ココルームの現場では代表の上田假奈代は詩人であって当時副代表の飯島秀司さんは現在はシマクマガンホーズってバンドで音楽をやっていたり、また演劇やっている人もいたり、いろんな表現者が集まって場を運営して、なおかつスペースの近隣にあった西成の街に巻き込まれていくとも繋がっていくとも言えるような状況の中で、今でもはっきり覚えていることがあって、当時自分がそういう、なんだろう社会的な活動に関わっていく、例えば野宿生活をしていた詩人の橘安純さんというおっちゃんがいて。その人と一緒にパフォーマンスをして無理矢理音楽の文脈にとも思って似非浪漫(関西のバンド)に誘われたレインドックスのイベントで彼と一緒に出たりしててんな。でも、それは浮くやん。変わったことやし。それを果敢にやってた。敢えて空気を読まないとか。なんだけど、音楽活動だけでは絶対出会えない人たちとたまたま出会ってしまって、そこに言うならばいわゆる社会的な問題という背景があって、自然と社会でいま起きている出来事にリアルに関心を持ってしまった時に、そういう自分と音楽をやっている自分が張り裂かれるような感覚があって、でも正直なことを言うとやっぱり興味を持っちゃったんよね。世の中で色々起きていることと、表現活動を繋げるってことに。関心を持ってしまったことが正直な気持ちで。でも、当時、それを言葉で説明できなかったんよな。出来なかったし、その気持ちを持ちながら実験的なことをすることに周りから見たらブレてるように見えたみたいで。
– (G) あぁ。あったね。音楽やりたいの?それとも美術みたいな表現がしたいの?とか。
(A) 当時みんな20代半ばやったし、周囲からは理解しづらかったやろうし、アーティスト仲間に「今お前がやってることって、ほんとに自分でおもろいと思ってやってるの?」とか言われてショックやったな。大和川レコードを好きでいてくれた友人がココルームでいろんなことをしている自分に対して、「最近違う方向に行っておもんなくなったよね」とかいうメッセージを送ってきても、それに対して反論できなかったというか、でも仕事として割り切ってやっていたわけでもないし。ただ、相手に対して「俺はいままでと一緒のことをやってるつもりやし!」とまでははっきり言えなかったし、なんというか自分の軸を相手に伝えられる確固とした「言葉」がなかった。
– (G) 自分の抱えていたことを言語化出来ない試行錯誤の時期やったんやもんね。当時のワタル君に対する空気というか、状況はすごい分かるな。
(A) 俺自身はその周囲が自分に向けている「空気」をむっちゃ分かってたし、ただひたすら信じて続けてたら分かってもらえるというか、理解してもらえると思ってて。ただ、始めた当初はとんがっているようにも見えるし、痛いヤツにも見えるし、「こいつどこ行くん?」みたいなのを思われてるのもよく分かってたけど。結局のところ自分に正直に生きるしかないから、興味のあることは全部やるしかないって思って、いつか答えが見えるやろうって思ってココルーム的にやっていく方向性も自分でやっていく方向性も同時にとにかくやろうって決めてやってた。それで完全に繋がらなくとも一人でやることとアートプロジェクトの整理はついた。とにかくやろうと。でも、バンドだけは説明がつかなくて、モチベーションもなくなってきた時期やったから、それでSamuraiJazzを抜けさせてもらったのはある。あと身体ももたんなと思って。
– (G) せやなぁ。3つはきついかも。
(A) ほんで二つの活動を続けていく中でちょっとずつやっていく中でつながる部分もあるなっていうのが実感できることも出てきたけど、そこはまぁ長い道のりやってんな。今は繋がっているけど当時はほんと大変やったな。
– (G) 10年前はアートワークショップ的なものが気軽になかったもんな。私も子供のためのアートワークショップをその時にお手伝いしたことあってちょこちょこあったけど、今ほど社会とアートを関連付けてどんどんやりましょう!みたいな感じはなかった気がする。
(A) なかった、なかった‼︎今はむっちゃ増えたし、普通にメジャーにみんながやるようになったから、今でこそ、それが仕事になって俺も呼ばれるようになったけど。やっぱり10年前はきつかったな。自分がそれを自信を持ってやっていくの土台というか空気があまりにも少なかったからな。でも実はやっている人たちはいて、社会的な問題を作品にするとかアートと結びつけるとかした時に出会った人の中で影響を受けたのはダムタイプの小山田徹さん。ダムタイプの舞台美術をされていて彼の作品というのが多様な人が過ごせる共有空間、例えばカフェを作るとかそれ自体が彼の作品だって言ってるところがあって、そういう人たちに出会ってきた時にそこはめっちゃそうやな、その場づくり自体がって表現であり作品やんなって思って。本人の中で表現活動として個人でやっていることと社会的なことがつながっている人たちを見てきて、そういう風に自分もなれたらいいなぁって。大和川レコードとしてやってきたことも、アートプロジェクトも大阪市内でやってきたこともつながるんじゃないかと思って、やりだしたら、時代の流れも変わったのと自分も経験積んだこともあって、10年経った今は大阪も離れてフリーになったり、やっと一人の表現者として色々やれるように混じってきたかなというのはあるかな。だから、今東京で始まったプロジェクト、ソロで自分がやってきたことと街でつながってやることが形になってきたかな。
– (G) 東京で始まっているアートプロジェクトはどんな感じなのかな。
(A) 東京藝大の音楽環境創造学科と東京都が連携してるプロジェクトの一環で、大学のあるエリアの足立区千住の地域の人を対象に日常生活と音楽をつなげる、街でレーベルを立ち上げるってことを思いついてんな。プロジェクト名は「千住タウンレーベル」。大和川レコードでやってきたようなことを街の人たちとも共有できないかなって思って、街のいろんな音を集めたり、街の人にインタビューしたり、一緒に演奏したり。そういう音を集めてその街だけに配られるCDみたいなものを作ろうと思って、新しい考え方として「タウンレーベル」にしてんな。
– (G) タウンレーベルってむちゃええな!そこから、ちょっと話の方向性を変えるけど、いろんな人と関わることや、深く関わざるを得ない環境で仕事や活動することは、ワタル君にとっては、それが人に興味がすごくあるとかから発端している部分があるのかな。
(A) 確かにわざわざしんどい環境に行ってるとか言われることもあるけど、むっちゃ簡単に一言で言うと、おもろいねんな。
– (G) 興味のある部分というか、人と対峙することで触れたことのない自分というかそういう感覚とか面白いと思って、そっちに向かっていくんやろうな。
(A) ちょっと無理矢理つなげるけど、人って美術でも音楽でもよくわからんもん作るやん。
作品になるから周囲も勝手に解釈するやん。でも、一番よく思うのはやっぱし人ってひとり一人全然ちゃうんやなってことを思うねん。同じようにそうだよねって言うてるけど、根本の考え方とか違うんやなって感じることが多くて。もちろん一人一人全然違うねんけど、その最たる話がわかりやすく違いが見える人、例えば障害者の人であったり、全く違う人生を歩んできた西成のおっちゃんやったり、子供やったりとの出会い直し。全然自分とは違う立場に置かれている人たちが生きてきて何を考えてこれをやっているかというのを共有し合うみたいな話、ニュースで流れて来るような固定観念を超えて。「あぁ、それ、自分は全然わからんわー」とか「すごい大変やったね。俺やったらそういうときどうするんやろう・・・?」みたいなこととか、そんなんを自分が知るっていうのはざっくり言うと結構ワクワクするというか、作品作ったりする時の未知なるもの見つけてしまった、これおもしろいちゃんていう感覚とそんなに外れてなかったんよね。それがベースにあったから橘さんとなんかしたのも、普通にコラボレーションしていたらわかない発想とか教えてもらったり。そういうことがおもろくて、周りから見たらそんなややこしそうなとこ突っ込んでいくなみたいなことが意外とおもろいでっでやれてしまっているのかもしれない。
(G) やれるんやろな。
(A) やれてるかどうかはわからんけど、もちろんしんどい時もあるし。ただ、いろんな背景を持った人たちと何かをしましょうってなった時に自分がどういう感覚になるだろうかってことは思うし。
– (G) カウセリングではないけど、そういったいろんな背景を持った人たちと対峙する強度みたいなものはあるやろうな。
(A) ただ、よく誤解されるのがこの人を助けたいとかそういうボランティアみたいなところではなくて、結果的に良かったよって言われる時もあるけど、自分がそういった人たちと対峙した時にリトマス紙みたいに自分がその人を通じて何に反応するか、自分のことを知りたいって思ってるねんな。
– (G) 自分の可能性を人と対峙することでどんどん引き出していくというか、こんな引き出しあった!みたいなことを楽しめるんやんね。
(A) だから、最終的には人に興味があるって言うてるけど自分の表現と結びつけて、逆に引き出しを見つけてもらって、じゃぁこんなことやりましょうっていうのが自分の表現にとって大事やからそこをやり続けているのはずっとある。コラボレーションをずっとやってるみたいな。音楽で言ってもあると思うねん。そうくるかーみたいな。
– (G) なるほどなー。ほんで長年かけての誤解がようやく解けてきた感じはあるやんね。
(A) まぁ、誤解というかイメージやからな。自分がやっていることを理解してもらうのに成果を出すというか、やり続けることと、いろんなプロジェクトをしてわかってきてもらえる部分があるかなーと思ったけど、それでもズレはあって、そこの一つの答えが、自分が考えていることを本にして出すっていうことを手に入れれたことは大きいかも。言葉にして自分がやったことをちゃんと伝えて、その上で違うならそれでいいしってなるし、今はすごいいいサイクルかな。作って、誰かと何かを作って、書くというのが大分楽になった。本を書くことで音楽の現場で違うつながりの仕方があったり、20代でずっと繋がらなくてしんどかった部分が30代になって本を書き出して自分になりに言葉を書き出すことで整理できるし、それで提案をし直せたり、共感できる人や仲間も増やせたりとかそういうのが出来るようになったのがありがたいなって思う。
– (G) 言語化できなかった部分を10年かけて、出来るようになり、それが本という形で出版できたことはすごい大きいことやんね。メディアとしても大きいし。
(A) うん、それはほんと大きくて自分が前に大きく進めたきっかけやと思う。
– (G) アサダワタルっていう表現者としての、とにかくいろんなことをやっている人でというイメージが本を読むことで理解できる部分っていうのはすごく大きいもんね。
(A) 本が自分にとっても立ち返られる場所になって落ち着けたところがある。
– (G) 名前はまだなゐの真吾君とも話してたんだけど、ワタル君は言葉にならないモヤモヤとした部分も的確に言葉にしてそれを流布させるのも上手やし、すごいなぁって話してたんよ。言語化するために常にむちゃくちゃ考えているというか、ワタル君にとって言葉は密接な関係なんやろなって。
(A) 言語化自体が作品ってところもあるけど。音楽と言葉って自分の中ですごく大事なところで、音楽も後からわかったけど、音楽の中でも歌が好きなんよ。言葉が音にのることに感動する。最近は歌モノばっかり聴いてる(笑)自分が言葉を作って人に感動してもらったり、新しい言葉を表現して伝えれるものがあるんやなーとか実感はあったから、音楽と言葉を軸にいろんな活動、それを軸に色々してて、端から見たら色々しているように見えるけど、軸はそこにあるな。
– (G) 真吾君と同じく、ワタル君もブレてないな。すごい!!
(A) ありがとうございます。
– (G) ワタル君もいろんな場所で活動をしていると思うねんけど一箇所に留まれないタイプでしょうか。
(A) 基本的には呼ばれることも多いし、興味があれば、呼ばれたら行くし、いかなあかんなーって時もあるけどかなー。関心がある範囲で動き続けている。あとは根本的には一個のことをやり続けるのは苦手なタイプやな。
– (G) 音楽と言葉っていうのが軸にあるけど、一本の木みたいにそこからどんどん派生していっていろんなことをするみたいな感じかな。
(A) これを永遠にやるみたいな、一曲売れたらずっとこれを永遠に歌い続けるとかいうスタンスじゃないから土台としての音楽と言葉はあるけど、その扱い方は変えていく感じやな。それがようやくできるようになったから音楽活動をしているけど、ライブだけじゃなくて、プロジェクトも音楽活動って言えるし、大和川レコードと名乗って一人で演奏している自分を相対化できるようになって。それまでは一人での演奏活動の比重が大きすぎたのもあるし、より相対化していっこいっこの活動を細かく見ていくことでプロジェクトをしている自分とまじあわせることが出来ることに気づいて、演奏といったわかりやすい形でなくてもこの活動尾m音楽の形態のひとつって言えるようになって、やっと自分の中で整理がついた感じやな。
– (G) だから、今は‥絶好調ってことやな!
(A) 絶好調かどうかわからんけど(笑)まぁまぁ、うまくいってるというか、やっとまとまったってところかな。
– (G) じゃぁ、これからはどんな感じで活動していくとかあるかな。
(A) 初めて音楽について本を書いて、音楽と記憶についてなんやけど。多分、年内には出版すると思う。サウンドスケープやフィールドレコーディングとかの音で風景を想起される感覚が好きでこの間はCDで出したけど、記憶に関わるプロジェクトはしっかりやっていきたいな。今は千住でやるプロジェクトで3年計画やから今年1年目でそこをまずしっかりやっていくのが音楽っていう形では割としっかりしたところやな。ソロは呼ばれたらやるって形でSjQは今年、アルバムを制作していこうって話になったよ。
– (G) ありがとうございます。ではでは、最後にみなさまへメッセージをお願いします!
(A) 一緒に楽しみましょう!!
アサダワタル
1979 年大阪生まれ。文筆家、ミュージシャン、ほかいろいろ。
「表現と日常」のステキな関係性を発明すべく、文筆と音楽を軸に様々な創作に勤しんでいる。
自称“日常編集家”。 著作に『住み開き』(筑摩書房)、『コミュニティ難民のススメ』(木楽舎)、『表現のたね』(モ*クシュラ)、
CDに『歌景、記譜、大和川レコード』(路地と暮らし社)、『Animacy』(SjQ名義、HEADZ)など。
これまでソロ演奏や様々なコミュニティで音楽プロジェクトを実施し、ドラムを担当する「SjQ/SjQ++」 では
アルスエレクトロニカ2013サウンドアート部門にて優秀賞受賞。
KBS京都ラジオ「Glow 生きるこ とが光になる」パーソナリティも務める。
大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、博士(学術)。